父と暮らせば

 俳優ならば浅野忠信役所広司阿部寛なんかにある種の「憧れ」を持つことはあるが、それと僕が幼いころから父と疎遠だったという事実は無関係ではないように思われる。そのため、彼らへの思いがいわゆる「憧れ」というものに結び付くのか、僕には自信がない。それはある種の懐かしさのようなものではないだろうか。
 「懐かしい」という感情を抱くには、その対象が過去と現在の分断された二点に存在していなければならないだろう。それがどちらか一点に存在していても、つながって存在していても、「懐かしさ」は生まれない。過去の一点に存在して思い出されることの無いものにも、今初めて見るものにも懐古の念は生まれない。常に身近にいて離れることの無い父親という存在に懐かしさを感じる人もいないだろう。僕の父はまだ存命であるが、現在の僕と彼との距離感はそれを可能にしているように思われる。僕の中に彼が占める過去の一点はひどくあやふやなもので、僕が青春を共に過ごした、液晶画面に映る類似した像との境界線ははっきりとしない。もともとそう会う機会も多くなかったが、上京してそれはさらに減少し、現在における彼の輪郭はさらにおぼろげになり、代替可能になってきているのかもしれない。
 生まれて三か月から三歳と半年になるまで、僕はアメリカのメリーランド州で過ごしたのだが、その景色の記憶はあってもその頃の父の記憶はほとんどない。おそらく僕が起きるより前に家を出て、僕が眠った後に家に帰っていたのだろう。それは日本に帰ってきてもしばらくは変わらなかったように思う。父のイメージは、彼が家に残す彼の様々な所有物に固着していた。それは彼の匂いが染みついた服であり、寝室であり、そのソフトを示す書籍であったりした。幼いながらに僕は彼の残滓から彼を構築していたのかもしれない。毎日夕方過ぎに家に帰ってくるようになった彼と、僕の中に構築された彼は対立の相を示し始めた。このころから僕の中で父という存在の断絶は始まっていたのだろうか。
 僕にとって、憧れという言葉と父が親和性を見せることはない。しかし、どこか遠い場所に置いてきてしまった何かを今見つけようと心がもがく、その対象としての父ならありえるのかもしれない。

役者・映像1年 中村光